2014年08月07日 囲碁・将棋

【黒田官兵衛】と【囲碁&将棋】

現在、放送されている大河ドラマ軍師官兵衛も後半戦に突入です。

この官兵衛と囲碁には、あるエピソードがありました。

 

秀吉の始めた文禄の役(朝鮮出兵)は、黒田官兵衛が予想した通り、明が南下し、戦況が激化してきました。

豊前で静養中の官兵衛に秀吉は命じ、文禄2年(1593年)2月に再度朝鮮に渡ります。

秀吉の命は、『せめて南朝鮮の領有くらいははっきりさせて来い!』という具体的なものでした。

官兵衛は現地に着き、そのことを伝えたかったのですが、各奉行、各隊長がそれぞれの思惑で動いていたため、秀吉の意を伝えるだけでもかなりの日数がかかってしまいました。

官兵衛は意欲を削がれ、同行していた浅野長政と囲碁を始めます。

 

そこに、石田三成、増田長盛、大谷吉継の三奉行がやってきました。

官兵衛にとってその面々は、日頃から気に入らぬ面々だったので、構わず囲碁を打ち続けます。

 

ドラマの中では、急用ではないのでまた出直すと三成らがいった為、話をしなかったと官兵衛は言っていました。

 

しかし無視された事に石田三成が怒り、あまりに無礼と、名護屋の秀吉に使いを立てました。

 

秀吉の返答は、「官兵衛は人を人と思わぬことで軍師が務まっているようなものだ。あとでよく咎めておく」というもので、今回は堪忍してやれというものでした。

ドラマの中では、三成のこの二枚舌の為、危うく命の危険にさらされた官兵衛でした。

 

これまでの官兵衛の働きを考えれば、さすがに囲碁くらいでは首は刎ねらないのでした。

やがて、明との停戦協定が一旦結ばれ、文禄の役は終結しました。

 

【官兵衛の出家】

文禄2年(1593年)8月、官兵衛は出家し、「如水」の号を授けられ仏門に入りました。

出家後の号をとった黒田如水(くろだじょすい)の名も、黒田官兵衛と同じくらい広く知られています。

文禄2年(1593年)6月、宇喜多秀家が率いる4万2000の軍勢が「もくそ城(晋州城)」を囲み、黒田長政・加藤清正の活躍により、もくそ城(晋州城)を攻め落としました。

日本軍が「もくそ城(晋州城)」を攻め落とした後、黒田官兵衛は石田三成ら三奉行が豊臣秀吉に囲碁の一件を讒訴していたことを知り、豊臣秀吉の許しを得ずに帰国し、豊臣秀吉に面会を求めた。

しかし、豊臣秀吉は明の勅使が来ないことに大いに怒っていたので、豊臣秀吉は黒田官兵衛が無断帰国したことに激怒、登城を指し止めと切腹を言い渡します。

これに驚いた黒田官兵衛は、出家して剃髪し、「如水円清」と名乗り、蟄居謹慎して、正式に切腹の命令が下るのを待った。

如水円清とは、「水は方円の器に随ふ」「身は褒貶毀誉(ほうへんきよ)の間にあるも、心は水の如く清し」という古語から取ったものである。

 

さて、切腹を覚悟した黒田如水(官兵衛)は、遺書を書き、、遺書を朝鮮に居る黒田長政の元に届けさせました。

 

黒田如水は蟄居謹慎していたが、遺書を受け取って驚いた黒田長政が父・黒田如水に変って豊臣秀吉に申し開きをしたため、豊臣秀吉は黒田長政の功績に免じて黒田如水を許し、黒田如水は切腹は免れた。

ドラマの中では、小早川隆景や福島正則や、茶々こと淀の方までが、官兵衛の助命嘆願書を秀吉に送っていました。

 

このとき、黒田長政は父・黒田如水を切腹の危機に追いやった石田三成ら三奉行を激しく恨み、後々まで遺恨を残しました。

 

さて、黒田如水は処分を免れたが、大友義統・島津忠辰・波多親(はたちかし)の3人は、朝鮮出兵(文禄の役)で臆病を働いたため、領土没収の処分を受けていました。

大友義統は小西行長を助けずに敵前逃亡した為、「朝鮮の卑怯者」と言われ、領土の豊後を没収されます。

石田三成は黒田如水と仲が悪かったが、後に関ヶ原の乱(関ヶ原の戦)を起こす時の為に、黒田長政に「我と和睦すれば、豊臣秀吉に言って豊後を拝領できるようにしよう」と持ちかけた。

しかし、黒田長政は「大国を得られるとしても、父・黒田如水と仲の悪い人(石田三成)と和睦することは本意にあらず。大国を得たとしても、父の心を失うのは不孝の至りなり」と言い、石田三成との和睦を拒否したのであった。

黒田官兵衛が囲碁事件を起こしたのは文禄2年(1593年)、黒田官兵衛が48歳、黒田長政が26歳の事であった。

 

 

将棋の戦い”の如し官兵衛の戦術

 

戦いには大きく分けて城攻めと野戦。

官兵衛の戦いぶりを見てみると 城攻めでは、まず説得工作、相手が応じない時に初めて攻撃する。

その場合でも四方のうち一方を開けておき、逃げ口を設ける。

 

城全体を囲み、敵の逃げ場をなくすと全力で戦いを挑んできて、敵味方 多くの犠牲者がでるからである。

これは孫子の兵法「囲師必闕((いしひっけつ)」である。

相手を全滅させるのではなく、敵将を降参、逃亡させ、味方の戦力の消耗を抑えて戦いを終え、次に備える。

 

播磨の佐用城攻め、明智方との山崎の勝龍寺城攻めで「囲師必闕」を用い、敵の兵を逃がし落城させます。

また、城を周りから威嚇、兵糧攻め、水攻めを行ったりして圧力を加え降伏を勧める。

四国の岩倉城攻めでは、材木を高く組みその上に大鉄砲を据えて城中に打ち込み、また鬨(かちどき)の声をあげて威嚇 降伏に追い込んだ。

ご存知のように 備中高松城は周囲を沼に囲まれ難攻不落であったが、堤防を築き水を引き入れて水攻めにより落城させます。

このような攻めは日数と費用がかかるが、味方の犠牲は少なくなる そして官兵衛は敵方の兵を次戦で味方として使います。

命を救われた兵は、官兵衛の元 喜んで働きます。

次第に軍勢が大きく強くなっていきます。

敵将打ち取り、とった駒(兵)を味方として使うと言う点は、正に将棋の戦術と言うべき戦いぶりです。

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